シゴトビト

シゴト、がんばる、ヒトのコト。

#14

(前編)「“突撃しまくる”というのが僕の行動原理なんです。そうしながら、同志と面白いことができるしくみを作っていきたい。」

アーティスト、ウマミタス代表 宇田川ガリバー哲男さん

取材日:2014年10月

関東で台風18号が荒れ狂って数時間後。台風一過の青空の下、新宿サザンテラスのリトル デリリウムでアーティスト(シンガー)であり、音楽プランニングブランド「ウマミタス」の代表でもある宇田川ガリバー哲男さんのインタビューを決行した。
聞き手:森川滋之

●アートと音楽の国際コラボ

誠ブログに、フィリピンでのイベントの話が書いてありました。詳しく教えてください。

一言でいえば、アートと音楽のコラボレーションです。

 以前あるイベントで共演させていただいたライブペイント(音楽に合わせて即興で絵を描くパフォーマンス)のペインターさんが、フィリピンの語学学校を出られていまして、フィリピンでビジネス交流会をやっていた人と同窓だったんですね。で、まずはその交流会に誘われまして、今年(2014年)の3月にマニラに行ってきました。

 僕はカタコトの英語しかしゃべれないんですが、そこで歌の他に司会もやって欲しいとムチャぶりされまして。まあ、ムネリン(筆者注:トロントブルージェイズの川崎宗則選手)みたいに度胸とユーモアだけで乗り切りましたけど(笑)。

 そしたらその交流会でコラボした現地在住の別のペインターさんから、日本人の元ジャーナリストで、フィリピンの貧困層のための教育機関を運営している人をご紹介いただいたんです。フィリピンの貧しい子供達は、学校を出ても働くところがないというので、彼らの就職先を作ってあげる目的で、現地で何軒かカラオケ店を経営しています。フィリピンで仕事がないと売春などに従事しちゃう子が多いんですが、この店は性的なサービスは一切ない健全な店です。

 ただ、それだけだと、子供から成人になるまでの間に稼ぐ道がない。それで、彼は大きな劇場を買って、そこを子供たちがアートや音楽のレッスンを受けられる複合施設にしたんです。400人着席できるホールがあり、カフェやレコーディング・スタジオもあります。

 ただ、作ったのはいいのだけど、何をするのか決まっていないし、やる人もいない。それで、僕に「全部任せるから何かやってみてよ」と言ってくれたんです。

 で、日本に戻ってから、企画を考え仲間を募り、8月に、フィリピンと日本のアーティスト総勢20組でアートと音楽の国際交流フェスティバルを実現させました。

●日本各地の国際交流団体とつながってきている

すごい行動力ですね。やってみてどうでした?

 一度やってみたことで、良かった点と悪かった点がはっきりしました。やってみないと分からないことばかりなので、とにかくやってみてよかったと思っています。

 帰国してから、フィリピン関係の団体からボランティアや音楽イベントの件で声がかかるようになりました。日比NGOネットワークの活動にも関わるようになりました。アジア文化会館からも話がきています。

 今後も日本各地の国際交流団体と関わり、まずはアジアと関わっていきたい。そのためのNPO設立も考えています。

名刺を2枚お持ちなんですね。それぞれ簡単に説明してもらっていいですか?

はい。「ウマミタス」は、音楽とアーティストの社会的地位の向上を目指している「音楽プランニングブランド」です。自治体や法人とつながり、「うまみを足す」活動をしているのですが、アーティストって世の中的に謎が多い存在なので、怪しくないですよ、個人事業ですよ、というアピールのために「屋号」が必要と考え、それで立ち上げました。

「国産プレミアム」は、ソロボーカリスト3人組のユニットです。地域貢献のためのチャリティーをかっこいい音楽でやろうと始めました。山口県の共同募金会を通じて、山口県立大学の赤い羽根啓発団体MEP(未来を笑顔にプロジェクト)という学生団体とコラボでCDを出しました。CDを買うと自動的に一部がが赤い羽根に募金されるというもので、赤い羽根募金がアーティストとコラボしたのは初めてということで、沢山のメディアに取り上げて頂きました。

●「ガリバー」という名前は東野幸治がつけてくれた

今、おいくつなんですか?

1983年生まれの31歳です。

「ガリバー」という名前は?

アーティスト・ネームです。東野幸治さんがつけてくれました。「宇田川→宇田リバー→ダリバー→ガリバー」、バンザイ、バンザイって(笑)。

東野さんと知り合ったきっかけは何だったんですか?

 日テレで「歌スタ!!」というオーディション番組があったんです(筆者注:2005年4月~2010年3月)。22歳のときに申し込みました。東野さんが司会をなさっていたんです。

どんな番組だったんですか?

 歌に自信がある人を発掘する番組です。通信カラオケからエントリーできるようになっていて、合格すると、即テレビ収録。「うたちだい」というお立ち台があって、それがぐるぐる回るんです。その周りに「ウタイビトハンター」という人たちがいて、全部で40組以上いるんですが、そのうち5組がランダムに出場して審査をする。30秒間歌わせてくれて、いいなと思えば札を上げてくれるんです。

 僕のときは、爆風スランプのパッパラー河合さんとm.c.A・T(富樫明生)さんが札を上げてくれました。そしたら、東野さんが「日本人ぽくない顔やから、なんか名前つけたほうがええで」と。

札が上がるとどんな特典があるんですか?

 札をあげてくれた人と一緒に曲を作れるんです。僕はパッパラーさんと一緒に曲を作りました。その様子を5回ぐらいに渡って放送して頂きました。

「歌スタ!!」に出たのは、歌手デビューしたかったからですか?

 はい。その当時アサヤンという番組で見た、現在のEXILEのATSUSHIさんに憧れて。ATSUSHIさんのボイストレーナーをされていた方に歌を習ったりしていました。

お仕事はなさっていたんですか?

 当時は、ユニクロの準社員でした。高校を卒業してから8年間、アパレル業界をてんてんとしていました。最初はGパン屋からでしたけど。

なるほど。だから、おしゃれなんですね。

 いや、高校までは服装がコンプレックスだったんです。お金もないから、興味があっても高い物は買えない。それで、社割目当てにアパレル関係(笑)。

●助けてくれた人に喜んでほしかった

歌にこだわるきっかけは何だったんですか?

 ここにもコンプレックスがありました。僕は、高校でカラオケデビューしたんですが、遊び友達の同級生に小金持ちが多くて、みんなおしゃれで、カラオケも慣れていて歌がうまいんです。それに比べて自分はみすぼらしいなあと思って、そこからおしゃれと歌にのめり込みました。

大学には行かなかったんですか?

 行きましたが2年で中退しました。クラブで遊び倒していたときの仲間が、ストリートダンスコンテストの世界大会で優勝したんですよ。高校からの知り合いでした。それをテレビで見て、「オレは何をやってるんだろう」と情けなくなって、親に最初で最後の土下座をして退学して歌を習いに行きました。

親御さんは反対なさらなかったんですか?

 話は高校時代にさかのぼりますが、m-floの☆Taku(タク・タカハシ)さんがボーカリストの募集をしていたことがあったんです。そのオーディションに合格したくて、ひたすらカラオケで歌いまくっていた時期がありました。その甲斐あって最終審査に残り、テレビでも放映されたんですね。

 で、親の話になりますが、堅い職業だったので、オーディションの話は言わないようにしていたんです。ところが、どこかでポロッと漏れてしまったんでしょう、その番組を両親が録画して、夜中に見ていたところを偶然発見してしまったんです。どうやら喜んでくれているとそのとき思いました。

テレビに出ることに結構こだわっていたようですが、理由はあるんですか?

 あります。2歳のときに交通事故にあって、今でも後遺症があるんです。それも実はコンプレックスです。そのとき、助けてくれたお医者さんや看護師さんやお世話になった方に恩返しをしたい。でも、連絡が取れない方も多くて。テレビに出て、恩返しの気持ちをメッセージしたら、そのとき助けてくれた人が見てくれて、喜んでくれるんじゃないかと思ったんです。

 正直、当初は何でも良かったんですが、テレビに出れる可能性が一番高いとしたら音楽かなと思い、音楽にのめりこんでいきました。

●お客さんが「応援しています」と

で、歌スタ!!のあとにCDデビュー?

 いえ、残念ながらCD化できませんでした。「あーあ、残念」と思っていました。ところが、ユニクロを辞めたあと京王百貨店の婦人服売り場で働いていたんですが、女性のお客さんが声を描けてくれるんです。「歌スタ!!に出てた人ですよね? 応援してます!」って。

 まあ、こういうのって3ヵ月も経つとばったりなくなるんですが、でも、可能性があると思いました。それで、本格的にバンドをやろうと思ったんです。当時、日本では少なかったR&Bのバンドです。

10年前ぐらいですよね?

 はい。当時のクラブシーンはラッパーばっかりだったんですが、これは夜の職業だろうと(笑)。僕は体の問題もあって「昼の仕事」をやろうと、mixiでドラムとベースとキーボードを探して4人編成のバンドを作りました。

デビューできたんですか?

 ええ。ユニバーサルの配信専門レーベルでしたが、2008年に女性ボーカルとギターを入れてメジャーデビューしました。デジタルと生演奏を融合させた、なかなかいい音楽だったと思うんですが、2年ちょっとで解散しました。

 僕以外のメンバーはIncognito(筆者注:ロンドン出身のアシッド・ジャズ・バンド)が好きで、ああいう音楽がやりたかったようです。僕は日本のシーンで本気でやるなら、もっとポップな曲調のものがいいと主張したんです。それで、最後のほうは、殺伐とした議論に明け暮れていました。で、諸々の事情もあり、言い出しっぺの僕が脱退したんです。

 契約はリリースごとのショット契約だったので、レーベルとは揉めずにすみました。

 ここまでが、現状の音楽マーケットに挑み続けていた時期です。



(次回は、宇田川さんが現在の日本の音楽業界に疑問を持ち、これまでの枠を超えるダイナミックな活動を開始することになるきっかけなどを聞いていきます。 )
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